日々、考える。日常。

物書きをしてゆきたいカワスミが、日々考えたことをストックするためのブログです。

小さな小さなバーの、半透明のカーテンを開けて、

 演奏家を名乗っていた時代のことだ。知らない街でオーケストラのオーディションがあるというので、ビジネスホテルを適当に探して、前日から泊まったことがある。新幹線で初めて降りた見知らぬ街。エレベーターの列や、駅員のイントネーションの違い。ビビッドな広告たち。その日は確かiPhoneを初めて買った日だった。わけもわからず道に迷いながらも、どうにかホテルにチェックインしてから、ふらりと外に出かけたのだった。

 

 古ぼけたガラス扉を開けてうどん屋に入り、名物らしいうどんをすすった。疲れていたので、温かいだしがとてもおいしかった。お酒が飲みたかったので、周りの路地裏を歩いてみると、焼鳥屋や風俗店が立ち並ぶ狭い狭い通りの隅っこのほうに、そのバーは小さな看板を出していた。

 

 確かまだ寒い時期のことだったので、立ち飲みバーはビニールのカーテンで囲われていた。中を覗くと、ニカッと笑うマスターと目が合った。カクテルと、つまみを何点か。この世で一番おいしいカクテルに思えた。

 

 初めて来たんです、明日オーディションなんです、と話すと励ましてもらえて。終わった後また駆けつけると、方向音痴な私に名所を案内するために、一度シャッターを下ろして自転車を出してくれたような気がする。ガイドブックの地図も私の代わりに読んでくれた。あのとき、見知らぬ街でどれだけ弱い心が救われたことか、わからない。

 

 次の季節が来て、またオーディションを受けに行ったとき、マスターは「またアカンかったんかあ。今度は受かる思てシャンパン用意して待っとったのになあ。ホンマやで。」と、残念そうに、明るく笑ってくれた。ふがいなくて、それでも仕方ないな、と思った。その年、私は楽器をやめることにした。

 

 色々な人が集まるカウンター。仕事の話をしたり、その街の流行の話で盛り上がったり。何よりも、心のこもった食べ物が美味しく、東京に帰ってきてからも忘れることができない。

 

 路地裏では様々な出会いがあって、昼間には出会わないはずのさまざまな人生が交差していく。たとえ赤の他人であっても、人は、人に心からの親しみを持って、やさしくできるのだと、教えてもらった土地だ。いま、あのバーのビニールを開けた、手ざわりを思い出している。