暑い夏だから、外の階段で涼もう。
散らかったアパートの中はまるでサウナのようだから、私は玄関に掛けてある杖を持って外に出る。古い木造アパートには昔お豆腐屋さんが入ってくれていたが、ご主人が体を壊してやめてしまった。それから、私の持っているアパートの軒先のシャッターは、錆びついてひらくことはない。きっと、私が死ぬまで。
白髪がだいぶ薄くなってしまった。汗が垂れてくるものだからカチューシャをしている頭が、風にさわさわと揺らされている。少し、涼しい。空の色は橙色へと変わってきている。
アパートの二階へ上がる階段に、私はいつものように腰を下ろして、涼みながら商店街の音を聴く。すぐ近くで電車が走っている。若い頃夢を与えてくれた、黄色い西武線は今も走っている。毎朝あれに乗って働きに出かけていた夫は、半世紀も前に死んでしまったから、近頃は顔も思い出せない。けれども、寝苦しい夜に、どこかで面影を見つけた気がして、少しだけ必死になって白い天井に手を伸ばしてみる。夫はもう私の夢にしかいない、記憶にしか存在しない。それでも、存在していてくれるなら。
私の記憶もなくなっていくのだろうか。昨日の食事は何を食べたんだろうか。「お年寄りは水を飲んでくださいね」と、役所の人は言う。親切で言ってくれているのだから、皺だらけの手で欠けた湯のみを掴んでお茶を飲む。「お年寄りは気をつけないと長生きできないでしょ」と、役所の人は言う。「私はね、もうすぐ終わりだから」と私は言うことにしている。「こんなに長く生きてるのをお兄さん、あなたに説明するのが面倒なのよ」、なんて言えないから。
階段の下に、野球帽をかぶった少女が通りかかった。体に合わない大きなリュックを背負って、広げた地図を見ながら小さな口でペットボトルから水を飲んでいる。彼女も暑いのだろう。夏はすべての人に平等だ。
「どうしたの?道に迷ったの?」
と、私は尋ねた。
「ちょっとね。お母さんのおつかい!」
少女は笑った。
「おばあちゃん、暑いね。なんでそんなところに座っているの?」
「部屋の中にいると暑いからねえ、こうやって外に出て風に当たっているの。涼しいでしょう。」
私は少女を見下ろした。少女は、まだ水をごくごくと飲んでいる。私と彼女の生命を蝋燭で表すような神殿がもしもどこかにあるならば、少女はまだまだ燃え出したばかりで、私はもうすぐ芯が焦げつく頃だろう。
「私ねえ、もう88歳なの。主人もね、50年前に死んじゃったのよ。亀戸から出てきたんだけど、それからずっと練馬。」
忘れもしない、あの空襲の後に実家を目にしたとき。妹は、真っ黒な顔で泣き喚いた。私は、長女だから、しっかりしているから、泣くなんてことはできなかった。二人姉妹なんだもの、ちゃんとしなくちゃいけなかった。
ああそうか、暑かったんだ、あの日も、暑かったんだ。あの地獄のような炎で、私たちは焼かれたんだ。自転車や、ガラス瓶がグニャリグニャリと融けて。逃げても逃げても炎が追ってきたんだ。
早朝、何もない、焼け野原。あったはずの私たちの家。それなりに小さな工場を営んでいた。みんなみんな、殺され、破壊されてしまった。私は、18だった。もう、大人だった。涙なんて出るもんか。出してやるもんか。唇をかたくむすんで、私は妹の背中をとんとん叩いた。
「練馬に出てきてねえ、いいわよ、ここは。駅も近いしね、商店街も便利でしょ。私はもう杖だからねえ、あんまり歩けないけど。でも、ここで涼んでいるの。」
「ちょっと涼しくなってきたもんね。」
「うちはねえ、妹がいたんだけど、妹のほうがしっかりしてなかったでしょ?だからねえ、実家に置いてきちゃったの。家業もあるしね。私が、先に出てきちゃったのよ、練馬に。結婚したしねえ。」
「へえ。妹さんも元気なの?」
「うん、元気。たまに亀戸まで行って会うわよ。でも、もう、足が悪くてねえ。」
妹も皺だらけになった。あの後建て直して、そして古びた実家で、妹はお茶菓子を出してきてくれた。若い頃私たちがおやつに食べていたものなんて、とても酷いものだったのに。そっと天井を見る。もうここにはあれは落ちてくることなんてないだろう。妹がテレビを点けると、地球のどこか遠いところで戦争が起こっていた。子供たちがたくさん死んだ、とアナウンサーが淡々と話した。あのとき焼け死んでいった幼なじみたち。どこか遠くの国へ出かけたっきり、帰ってこなかった男たち。私と妹は、それを知っている。知っているけれども、言葉にはしない。あの焼き尽くした炎を、悲鳴を、焼ける死体の臭いを、爆弾が落ちてくる中あてもなく逃げ惑った群衆の姿を。ああ、もう、できれば忘れたいのだ。妹はそっと、テレビを消した。
「あなたはまだ若いんだから、がんばって生きなさいよ。私、なんでも一人でやってきたの。このアパートのことも、何でもね。主人が早く死んじゃったものだから。私は、もうじきお迎えが来ると思ってるけどね。」
私は少しだけ、愉快に笑った。
「そんな、まだまだじゃない、おばあちゃん。ちゃんと水飲んでよね!暑いんだから!」
少女も役所の人みたいなことを言う。まだ水を飲んでいる。
「じゃあね!私、お使いがあるから!バイバーイ!」
リュックを背負い直して駆け出して行った。私は無言で手を振って見送る。
もう少し、何か喋りたかったんだけどな。この階段でいつも夕涼みしていても、誰もあまり来ないから。少しだけ、誰かと喋りたかったのかもしれない。
私は、孤独なのだろうか。皺だらけの顔で、醜くなってしまった体で、私は何を未だに求めているのだろう。脳味噌すら、融けかかっている。考えると、ずっとずっと落ち込んでしまうから。落ち込まないように、生きてきたんだから。自分はなんだってやってきたんだ。しっかりしているから、お姉ちゃんなんだから。
明日も階段に出よう、と自分に言い聞かせて、玄関へゆっくりと戻る。海から重力のかかる陸上に打ち上げられた両生類みたいな動き方で、のそのそと這う以外に、もう私には生きるすべがないのだ。ポストに入っていた夕刊には、新たに爆撃された飛行機の写真が大きく出ていた。どれだけ恐ろしかったことだろうか。少しかたくなってきたご飯を米びつから出して、主人の仏壇に供える。古い写真に手を合わせて考える。私はいつ死ねるだろうか。主人と一緒にまたあちらで暮らせるだろうか。私がいなくなった後の世界は、平和になるのだろうか。あの少女が、空から延々と降り続ける爆弾におびえることがあるのだろうか。明るい笑顔が、ゆがんでしまうことが起こるのだろうか。唇をかたくむすぶと、あの日の暑い、とても暑い空気が部屋の中に入ってきて、すべて焼き尽くされるような気がした。
明日も外で涼もう。暑い夏だから。とりあえず、この夏、私は生き長らえているのだから。
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(練馬駅周辺でフリーペーパー配布をしていたらこんなおばあちゃんから話を聞けたので、想像しつつ時間軸をある程度振り返りつつ、8月なので平和への思いを書いてみました。ほぼフィクションなので詩のブログのほうに書けばよかったのですが、まあ、いろいろな文体と視点と主語の実験をしていたくて。あ、一言も触れなかったけど、ひとりぐらしのおばあちゃん、地震のとき大丈夫だったのだろうか。こういうの読んでくれる人多かったらもう少し書きます。読書量が現在圧倒的に足らないのでうまく文学的にならない……がんばりたい。あああ、また文字の大きさ変な感じになった。はてなブログの仕様にうまく慣れることができない。あと、いかに三点リーダーを使わないかみたいなのももうちょっと練習が必要かなと思ってます)