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映画「あいときぼうのまち」ネタバレ&毒舌レビュー

これから見たいと思ってるやつ!読むなよ!絶対に読むなよ!!!(例外:ホルン奏者は長文ですが必読です…ってほどでもないけど一応笑えるように書きました。)

 

いやー、酷かったです。色々、映画として何を目指してるのか理解できず、ドキュメンタリー性も感動もエロも笑いもてんこ盛りにしてみちゃった結果、どれもスベるスベる…監督、脚本、演出家は猛省してほしい。映画として作品の魅力を1ミリたりとも感じない。今年の見なきゃよかった大賞一位です。

 

カーチャンに映画館を出てすぐLINEで送ったあらすじはこちら

「61歳のおばあちゃん(夏樹?なんか美魔女風の歌手)が、昔の同級生とFacebookで再会してラブホで不倫した後に思い出の海で石投げてたら、津波が来て死んで、その孫の女子高生は地震のショックで援助交際して、最後は立ち直って、ばーちゃんの遺影を前にして家のあった瓦礫の場所でホルンで、海に向かって亡き王女のためのパヴァーヌを吹いて終わり…!!!

 

という、酷い話だった!!!」

 

いやー、酷い、酷い。そんな、震災前に「私、音楽高校行くんだー!」って家族の前で披露してたホルン、震災後ずっと心を閉ざしてた彼女は、ようやくすったもんだがありまして、ばーちゃんの遺影と海と未来に向かってホルンを吹けるんですよ。震災後はコンタクトにしていたのに、やおら、瓦礫の上でコンタクトを外して、眼鏡をかけて本来の自分に戻り(この描写もそれまであまり伏線がないから非常にわかりにくいし、わざとらしくベタな手法)、思い出の、亡き王女のためのパヴァーヌを…。もう、亡き王女のためのパヴァーヌって時点でもう、「クラシックってアルファー波出てるんだよね♪」程度の認識での選曲なんだろうな、と陳腐な感じしか持ちません。なぜその曲にした…あ、ターゲットにわかりやすいからかな…。

 

それから、そんなに数年間楽器から離れてたら、いきなり、マウスピースでのアップもなしで、ホルン本体いきなり構えて、曲、吹けませんから!いい音出ませんから!

 

…ってここが感動のラストシーンだったんですけど、もうその、アップなしで吹くんかい!ってツッコミと、指でのレバー操作と音がズレズレで萎え萎えになってしまい、鼻でフッと笑うしかなかった。失笑です。(ええ、わたくし楽器をやっていたからこその感想です。その点のだめカンタービレは非常にドラマも映画もがんばっていた。そこまで見る人は見るので、ワンポイント的に無駄に楽器使うのはどうなのかな、と。映画ファンに割と好評な作品、トウキョウソナタのラストシーンでのピアノの使い方も非常にリアリティがなかったことで私は不満です。で、ホルンの仕組みはいつも安心YAMAHAさんのサイトからどうぞ。 http://www.yamaha.co.jp/plus/horn/?ln=ja&cn=10703

 

だいたい「音楽高校行くんだ♪入ったら寄宿舎になるけど…」みたいな女子中学生、家族の前で亡き王女のパヴァーヌ吹いてドヤ顔しません。もっと小難しいエチュードとかモーツァルトの協奏曲とかさらってます(私だったら、せっかくホルン使うならレッスンもちろん通ってるだろうから、ホルンの師匠を出してきて、それを中学校で音楽を教えている米倉斉加年…とかにして、そいつに深イイこと言わせますね!)。で、もう、この家族の前でのジャイアンリサイタルなシーンから、あーもうラストは被災地に轟くホルンの音色…!で終わるんやろなーと思っていたところ…

 

ななななな、なんと!女子高生が数年ぶりにアップもなしに吹きはじめたホルンの音色は、戦時中福島の山でウランを掘らされていた学徒動員の少年、戦後原発を認めるか認めないかで争っていた少年少女たち、そして現代、女子高生に付き添っていた男性のライターが東京を歩いているところまで、高らかに響いてしまうのです。いや、なんかお前ら、「あ、なんだろうこの音は?どこから?」みたいな遠い目をして微笑むのほんとやめてー!キモいよー!!!!(最近だとまるでSPECのラストのような手法、でもSPECのほうがまだずっとマシ)。

 

はい、じゃあ、ここで一言いいですか?

 

 

どんだけ音でけーんだよ!!!

(はい、90年代のテキストサイト的なツッコミをしたかったんです。フォントも懐かしい感じにいじりたいけど今うまくできないや。)

…その他、無駄なセックスシーンの多さ、登場人物の誰一人たりとも感情移入できないキャラの作り込みの浅さ、震災の描き方のリアリティのなさ、ちょくちょく本物のショッキングな映像流し込んでくるけどあんまり前後とうまくマッチできてなくてとっぴすぎる、時代と場所が数分で移り変わるので話についていきづらいうえに、その手法をとったことで得られたメリットをあまり感じられない、役者がまったくなまっていない!(エキストラのいわき市民のみなさんと交流があったはずなのに…一週間でも住めば、指導受ければ少しは違うのに…ほとんどみんなが標準語でした。役者根性、演出魂をまったく感じられない。方言指導はエンドロールに見つけられなかった)などの諸問題が。

 

一緒に見に行った社会派の父の唯一の不満なんですが(東海原発の前で座り込みをしている、ガチガチです、にも関わらず不満顔であったよ、彼は!)、なぜ玉音放送が本物の音声を使えないのか…使えるんじゃね?とそこをしきりに気にしていました。私は割とどうでもいいんですが、一応社会派リアリズムみたいな看板うってる以上、本物使えばよかったのにねえ。

ほんと、玉音放送きいてるときも浅い芝居だったなあ。玉音放送の中、学生A「おい、これ、天皇陛下の声か?」学生B「何が起こってるんだ?」軍人A「おいそこ静かにしろっ!」軍人B「(間を置いて)日本は、戦争に負けたんだっ!」いやいやいや、軍人B、思いっきり天皇陛下の声にかぶってますけど。それはないんじゃないでしょうかね。私は割と天皇陛下好きなので、地震のとき天皇陛下出てきたときはもう、うわー!きてくれたー!そんでこれはガチでヤバい事態なんだなー!と思ってひたすら黙って聴いてましたけどね。軍人B、天皇陛下玉音放送ナメすぎです。

 

他にも、親が自殺で死んだのを発見、っていうのを二世代に渡って目撃するんですが、いやいやそういう反応できないからね…?みたいなのが満載でドン引きしました。私も似たようなシーンに対峙したことがありますが、人間は、そういうシーンでは、意外と気を張ってできるだけ冷静に処理して後から悲しんだりする。ここに「自殺」をとりあげた監督の人間観察力の浅さがにじみ出ている。

 

で、観客を泣かせる落とし所が、夏樹演じるババアが不倫の末津波で死んだんですけど、逃げるときに(ここのゆらゆら揺れるカメラワークもベタすぎて気に食わない。ゼロ・グラビティ見て勉強してきてほしい!)ダンディなオッサンの不倫相手と、必死に石段に登りつつ、ハッとして後続の親子連れや老人を、不倫カップルで助けているうちに死ぬ…とそんな話。疎開先の東京の住宅にある日の昼間、線香を上げさせてくださいと、子連れの女が訪ねてきたらしい。その夜、女子高生とその父親は和解します。父親が静かに語り出します。「ばーちゃん、世代続いて自殺してたから、自分もするんじゃないかってずっと不安がってた…(あのー、そんなばーちゃんのキャラの書き込みの伏線、全然ありませんでしたけどー。人生に悩まず前向きに、61歳から社会福祉士の勉強をはじめて、不倫相手と会うためにウキウキヒョウ柄コート着込んで口紅塗ってましたけどー。)自殺せずに、人のために死ねて、よかったねえ…」「ううっううっ、ばあちゃん、会いたいよお…」と嗚咽するこの女子高生がまた大根なんです。なぜ、福島から原石を見つけてこなかったんでしょうか。…あ、ここでのツッコミは、なんで親子連れ、ばーちゃんの名前知ってたの?逃げさせるときに名刺渡したの?みたいなね。Google画像検索したのかなあ。生前にFacebookやってたから丹念に探したのかなあ。特に震災で亡くなった方のTwitterなどを見るのは非常に辛いですが、Facebookにはそういうときのためのガイドラインもあるはずなので、どうやって発見したのかほんとうに謎です。

 

女子高生が震災のショックで東京出てきてから援助交際始めるんですけど、特に家は(避難住宅だけど)あるし、家族も(ばーちゃんは死んだけど、まあここが彼女の精神にとっては非常に問題ではあったんだけど)いるし、援助交際してる意味がわからない。グレる=援助交際、って発想が90年代か!コギャルか!ルーズソックスか!村上龍の小説か!…となります。まあ、女子高生はばーちゃんの不倫を知ってたので、その反動もあるかもしれないけど。自分を大事にできない描写なら、なんか他にあったのではないかなあ…。途中で気を許せる人とごはん食べてるときに地震が起こって、女子高生がテーブル潜って過呼吸になるんですけど、え?それ?今までオッサンとラブホいたときに地震起こらなかったの?みたいな矛盾。私が脚本家だったらぎりぎり、メンヘラ描写はリストカットか拒食症にするかなあ…それも安易なアイディアだし、ほんとに悩んでる方に申し訳ないけど。

 

女子高生はばーちゃんの不倫に、ばーちゃんのパソコンでばーちゃんのアカウントでFacebookを見ることで気づく。「あたし、mixiTwitterしかやってないもーん!」と言った女子高生ですが、その程度のネット力なら、赤い数字出てくるメッセージとか、新着の何かとか、読んじゃってるでしょうね…。それ、既読になってて(ジャスミン革命をきっかけにFacebookに興味を持ちMacBookではじめた)ばーちゃんは、「あらやだ!私のFacebook読まれてる!誰かに不倫に気づかれてるわ!」となるはずなんですが、まったく最期まで疑いもしなかった。不自然すぎる…。

 

女子高生の「ばーちゃん、Facebookで離婚、いま多いらしいよぉー。焼けぼっくいに、火がついちゃうんだって☆」「アハハハ、おばーちゃんそんな人いないわよお」って家族の談笑場面でのセリフも不自然。焼けぼっくいに火、女子高生で言います?あ、このときは中学生だ。中学生だよ?あと、表現が普通にゲスい。あれ、ぼっくい?ぼっくり?まあいいや。

 

…とまあ一時間ちまちまiPhoneで文句打ちました。お前ら見に行くなよ!見に行くなよ絶対に!クソ映画とはこんなものだ、と知りたい人は見に行くべきです、勉強になります。金返せ!ってなりますけど。

 

推薦文、脱原発の人たちしか見事にいなくて、ひとりの映画人の推薦もない。色々なところでプロジェクトのどっちらけ感が伺えます。

 

脱原発のベタ褒め文化人たち、この人たち年末だけ第九とか聴いて「ベートーヴェン人間力に感銘を受けた!明日からもたたかい続けよう!」とかドヤ顔で言ってそうで、そこがターゲットだから、亡き王女のためのパヴァーヌなのかな…。

 

私だったら、フォーレのレクイエム、モーツァルトのレクイエム、バッハの有名どこの何か(マタイ受難曲終曲コラールがベスト)、また故郷に思いを馳せるということでモルダウ、未来を考えようということで、まあジュピターや新世界2楽章もありかなあ…色々選べそうなもんですけど、まあとにもかくにもこんなにも泣けないラヴェルは生まれて初めてでした。ラヴェルファンからも抗議出るレベルの薄っぺらさよ、これ(ああ、バッハ使われなくてよかったなあ、バッハだったら激怒してたな。私、バッハ大好きなので)。

 

猛省してほしい。一作目なので、できればもう作らないでほしい…あるいは下積み続けて勉強し直してまた作ってほしい。

 

安易な震災表現、クドカンはそれを避けてのあまちゃんでのジオラマだったわけです。あそこの橋本愛は泣けました。なぜ、リアリティのない震災ドラマの映像を撮り、直後にリアルの津波映像を流すのか…安直です。

 

安直なプロバガンダは福島の人たちを愚弄する。震災後の表現者としての表現のあり方については引き続き考える必要があるし、まあそのトリガーにはなってくれたけど、私はつよく、この作品を軽蔑しました。おわり。

 

あ、ラストシーンが、原発できる前に福島の少年少女(後の不倫ジジイババアですね)が、海に向かって石を思いきり投げながら、「ねえ!未来ってえー!明るいかなあーーーー!!!」と叫ぶものでした。なんだこのベタな感じは。金八先生か。スタンドバイミーか。もう、予告で泣けたから期待して行ったのに、ないわーと思いました。


結論:今年の邦画は今のところ「そこのみにて光輝く」の一人勝ち!これ見るならそっちみんな見に行って…!(テアトル新宿で今朝、緊急再上映が決定しました!おめでとう!)

 

それから、色々、文化人の文化度の低さに嘆きました。未来、全然明るくねえっす。オイラ絶望っす。まあ、招待されたら色々褒めるだろう。実のところはみんなどう考えているのか。オフレコで、福島みずほが「いやあれはないんじゃねwww」とか言ってくれたら面白いのになー。室井佑月とかも。ほんとはどう思ってるのかな。まー友達じゃないからきけないや。

 

酷かった。映画として。ただし作った意欲はすごい。なぜこの監督、演出、脚本、カメラ、音楽、方言指導(いたのか?)、演奏指導(いた…)、役者になったのか。カネなかったんだろうな。しかし脱原発の人たちの結束力はすごいので、映画作ってるんでー!と言ったらいくらでもそういうものをボランティアで提供してくれる人たちがいたと思う。映画製作は近年地域振興と密接なのでもっとロケ地巡りができるような広報をしてくれればよかった(まあ映画酷いんで行かないけども、私は)、そして脱原発の人たちを巻き込んだ「映画作ろうぜ!」ムーブメントにできなかったのだろうか。でないと、いきなり外野から来て何言ってんの?みたいになるよね、特に福島の人はね。こんな安っぽい描写で自分たち描かれて喜ぶんだろうか。

 

あーあー、ダサい映画だったわー。キングオブ今年のクソ映画です、間違いなく。なぜなら脱原発というものすごいもの抱えて、ターゲットもこれだけ抱えてこれかよ!というのは。ウンコでした。おわり。

 

おまけ。ひとつだけ、いいことは、これを見てから必死に地元茨城で自家製のジャムや梅酒を作っている脱原発の人たちに関して、彼ら彼女らなりの日常の中のレジスタンスであるのだな、とはっと気づかされました。その目覚めるきっかけとなったのはよかった。しかし映画はウンコ。

 

もうひとつおまけは、このレビューは私のfacebookに書いたもののほぼコピペなんですが、この映画の制作側は、あまり「ロケ地巡り」というものを想定していないのでは、と。福島に行って多くを見てきてほしい、と思いつつ、やはり放射能の害をほんとうに訴えたいという演出もあったので(まったく効果的ではないためいまいち心まで伝わらなかったが)、いわゆる「食べて応援!」に準ずる「行って応援!」には反対なのかもしれない。それでこのスタイルなのかもしれません。しかし映画はウンコ。私は福島に行こうと思いました。みなさん、茨城にも遊びに来てください!おわり。