日々、考える。日常。

物書きをしてゆきたいカワスミが、日々考えたことをストックするためのブログです。

舞台への渇望、新宿の地下、冬のラーメン、舞台の明るすぎる光について。

話題になっているのは知っていて、読まなければ読まなければ、とずっと思っていた。ついつい枕元に積んだまま読んでいない本を今日やっと読むことができた。松本ハウス統合失調症がやってきた」だ。

統合失調症がやってきた

私の場合、実は異常にお笑いが好きなのだが……いったいいつからなのかというと、ボキャブラ天国時代までさかのぼるのだった。それから、オンエアバトルを見ていた。ネタ番組がほとんどなくなってしまった今、当時のブームがとても懐かしく思える。

コンビの二人の生い立ちについても、それぞれが語る形式だ。特に統合失調症の当事者であるハウス加賀谷(芸人さんについて語るときは結構「さん」を付けるのがどうもルールっぽいんだけど、なんか今日「さん」付けちゃうと色々おかしくなるので敬称略したほうがいいのかな、と思っています、すいません)の生い立ちは壮絶だった。

昨今のブームだと「毒親」とも言われてしまうだろう加賀谷の母親の性格、そして発症してからの愛情が痛々しく、とても身近なものとして理解できた。

相方である松本キックが黙って見守り続け、コンビ「松本ハウス」が復活するシーンは感動的だ。この本はとても自分にとっては「あるある」が多く、読みながら何度か自然と涙がこぼれた。

私自身のことを話すと音楽を学んでいた時代に、一度おかしくなって楽器が吹けなくなっている(統合失調症ではないので、幻聴や幻覚はなかったのだが)。自分の体の外に、突然透明な膜が現れた。視力や聴力が一段階おかしくなったんじゃないだろうか、今日はメガネを忘れたからこんなに世界の見え方がおかしいのかな、と思った。自分が出した音を身体にフィードバックさせて音楽を変えていく、あるいは保っていくことはとても重要なことだ。自分がどんな音を出したのか、その場ですぐにわからないのは、まるで音も字幕もない難解な映画を観ているようで、非常に辛かった。その症状は一年弱に渡って続くのだが……(このような症状は離人症あるいは解離性障害と呼ばれることが多いようだが、私の正式な病名はそれではないようだ。今ここで明らかにすべきことでもないとは考えている)。

思い出すことがいくつかある。診断されてから、いくつかの舞台を下りた(それはとても大きなことで、当時は絶望的に思えた……)。ただし、仕事ではない、サークルの演奏旅行については、強行することになった。そこでは、自分のソロ部分が非常に長い曲を演奏する必要があったのだが、リハーサル時、まったくうまくいっているのかどうかもわからずパニックになっていた。冷静に私をなだめて、外でコーヒーを飲みながら、MDプレイヤーに録った音を聴かせて「ちゃんと吹けてるよ、大丈夫だよ」と落ち着かせてくれた先輩のことは一生忘れないと思う。その後も寝込んでいた一年間、演奏を共にすることも稀にあったが、彼は私のことを素直に褒めてくれたし、適切な言葉をかけ続けてくれた。今でも私は彼に会うと泣き出してしまうし、抱き合ってしまう。それはまったく男女の仲ではなくて「戦友」に近いものを感じている(コンビのことも「戦友」だとこの本では言っていて、その感じはとてもよくわかるのだ)。彼と並んで演奏していた時間が特に長いことは、私の人生にとってとても貴重だったと思う。

「もう演奏はできないんじゃないか、しかし何をすればいいのか、何もできない」という、寝たきり状態にあった。新聞も雑誌も読めなかった。文字はポロポロと上滑りして、古代の石碑を眺めているようだった。ありとあらゆる音が恐怖で、耳栓は手放せなかった。一番最初に読めた本は、手塚治虫ブラックジャック、続いては、ノルウェイの森である。それまで読んだ小説の中で最も病んでいたのではないか、と思われる登場人物、直子の心理を知ることで何かわかるのではないか、と思ったのだ。

そんな中で、楽器の師匠(音楽をやる上で師弟関係は非常に重要で、私は学校の先生のことも正直「先生」として思い出したことはあまりないが、師匠のことは14歳から知っているし、生涯ずっと「師匠」だと思う)の家を訪ねたときに、「音楽は一生やっていけるものだから、今やめるとかやめないとか決めなくてもよい」というようなことを(もっと的確にどこかに書き残した気がするんだけどな……)言っていただいた気がする。

現在、またもや私は楽器が吹けない(これは、前回とはまた違うのだ。色々と感覚が衰えていて、その範囲を超えてキープするために鍛える努力はもはやできない、とある日悟った。だから、「吹かない」という決断をした……しかしこれは私の逃げでもある。一流の方々は毎日そのために訓練されているのだから。けれども、私はあくまで三流以下だった。ずっと食べられない状態が続いていて、これで食べようともう努力し続けなくてもよい、と決めたら、肩の荷が下りて楽になったのは、事実なのだった)。しかし師の背中はいつも前に存在し、趣味の多さや仕事に関する姿勢など、見習うべき点が山ほどある。だから、まあ生きていればいつかまた吹けるだろう、とも思う。別にそれはプロとしてではなくても。今、それをするのはとても重すぎるし、他にすべきことがある。あまり理解されないのだが……音大卒という経歴がありながら、人前で下手な音を出すということは、とても怖いのだ。恐ろしいことなのだ。けれど黙って見守ってくださる方がいるのは、私にとってとても貴重なことだ。まさにハウス加賀谷における、松本キック的な存在なのではないかと思う。

一年の療養生活を終えたとき、もう一度東京に部屋を借りることになった。恐らく新居を決めたときに、一番近くのラーメン屋でラーメンを啜った。ラーメン屋は、立ち飲み屋みたいに壁がなくって、半分外にいるみたいだった。まだ寒さの残る時期だった。現在そのテナントには別のラーメン屋が入っていて、頑丈な壁ができて、全く違う味のラーメンが提供されている。今日ちょうどそこでつけ麺を食べて、顔なじみの店員のお兄さんと会話をして、ふと、昔ここで寒い中啜ったんだよなあ、と思い出した。それをお兄さんに言ってもきっと仕方ないし、困らせてしまうことだから言わなかったけれど。

あのとき。東京に戻ったとき、ひとりで暮らすのは不安だからと、同じく療養生活から戻ることにした友人と一緒に住むことにした。同居生活のきっかけになった漫画があったのだが、それもこの前最終巻が出てしまって、いつのまにか私たちの時代は終わっていた。……それはもちろん、終わってよかったものなのだ。人生はどんどん進んでゆく。ぐるぐると回す万華鏡のように変化する(そうして、私たちは一歩一歩死に近づいている……ハルキ風に言うならば、だが)。

ハウス加賀谷は舞台の上でこそ輝くのだ。だから戻ってきた。私も、一度は舞台から下りたが、結局はアウトプットしていかないと生きられないと気づいてしまった。だから、手探りをしながらも今、こんな感じで暮らしている。そんなに悪くない。特に、詩には根性を入れて書くようにしている、と思う(詩のブログは覇気がないんだけども……特に発表するときについては)。

松本ハウス」が舞台に復活するとき。(ネタバレになるのであまり細かく書いてはいけないと思うけれども)新宿歌舞伎町地下のロフトプラスワンの、リリー・フランキーのカラフルなイラストが描いてある舞台へ、ロフト上の楽屋から勢いよく現れたのだろう。あの、歌舞伎町の夜ぜんたいを照らすようなギラギラしたライトがカラフルに点滅したのだろう。その光景が鮮明に浮かんで、ただただ、泣けた。光の下で、汗だくでコミカルな動きをするハウス加賀谷。どっと沸く客席。そして、サポートしながらも高いテンションでツッコミまくる松本キック。それは歓びに満ちた舞台だったにちがいない。

療養から戻った後、舞台に立てて楽しかったなあ。そんな気持ちを久しぶりに、リアルに思い出すことができた。きっと今夜の夢に出てしまうだろう、私はすぐ影響されて夢に見てしまうのだ。私はピアニストではないから、舞台はひとりではあまり作ることができない。共演してくれたピアニストがいつも、あのジリジリ熱い照明の下で情熱的に私のことを盛り上げて、音をもって奮い立たせてくれた。私は彼女と過ごすその時間が、とても好きだった。舞台袖から、明るい舞台へと分厚い扉が開かれる直前に、いつも彼女と必ず握手をしてから、とびきりの笑顔で出ていったのだ。漫才はやったことはないけれども、きっと漫才と似ているのかもしれないな、と思う。

最終的に結局やめるならば、あのとき、楽器をやめてもよかったのではないか、と言う人も、もしかしたらいるかもしれない。けれども戻らなければ得られないこともたくさんあった。出会えなかった人々もたくさんいた(あれから再会した友人は私を励まし、適度な距離を置きながら見守り、いつのまにか私の知らないところで死を選んでいた。人生において無理のない距離を置きながらも音楽と共に生きることを、その友人から学んだと思う)。

何より、何もできなかった期間に私がどれだけあの舞台の光を渇望していたか。その頃私は宗教音楽のサークルのためにできるだけ良い演奏をしたくて、たまに教会に通って勉強をして、聖書から多くの影響を受けていた。「光」という言葉は私にとって大きなキーワードだったのだ。だからこそ、もう一度味わえてよかった。ハウス加賀谷松本キックに「もう一度、一緒にやりたい」となかなか言い出せなかった気持ちも痛いほどわかった。

体を壊しながらもコンテストの舞台でストックした芸を披露し、その後もいつも頑張っているなあ、と様子を見ている若手芸人がいる。「私も舞台にいたのですが」と私がポツリポツリと喋り出す機会があったときに「それは僕よりもずっと大変だったでしょう!」と即座に強く、彼は言った。けっしてどちらが偉いというわけではなく、どちらの芸が上品だ下品だというわけではなく、芸事に関してストイックだからこそ、人に対して思いやりが持てるのだと思うのだ。その心の広さは多分、人よりも売れない期間が長くて苦労しているからなのかな、と下世話にも感じることもあるが……たまにテレビに出ているのを見ると、とても嬉しい。まるで親戚のようにテレビにかじりついてしまう。けれども、何よりも健康であってほしいと心から願っている(それを思えば……私もおそらく健康であったほうがよい。もちろん)。

最後に、ハウス加賀谷が舞台に戻るために自律した様子を見て、もっと見習わねばならない、と思った。今まさに、自分はとても弛んでいた。まあ、何をやってもダメなときはダメなんだけど。今、これを読み終えて、「バリバラ」などに出演している彼らの姿を思い出して、納得することができる。月並みな言葉になってしまうが、精神障害に関する理解が広まることを願うし、そのために奮闘している彼らを本当に尊敬する。

ちなみに、今日読んでいたショッキングなコラムはこちらだった。うすうす、そんな気がしていたけれども、実態を突きつけられてしまうとどうしようもなかった。


精神科病院のインチキ「退院」・患者さんのインチキ「地域生活」は高くつきますが、いいんですか?(みわよしこ) - 個人 - Yahoo!ニュース

精神科医として働く友人と時たま連絡をとることがある。まったく主治医と患者の関係ではないから、彼は私の健康状態については何も触れない。そのことで、私は、何をもって良い医者と判断すべきなのか、なんとなくわかる気がして、とても助かっている。

メンタルヘルスに問題を抱える人が増える中で、いわゆる「ニセ科学」ではない適切な情報を発信していくことが大事だと考える。私は医師ではないから何が本物かなど、勘でしかわからない。わかった気になっているだけだ。そのためにも私自身、必要なことは学習し、努力していかねばならない。「やらねば」という、この「must」を付ける思考があまり良くないのはわかっているのだが、そのあたりに関する根本的な思想はあまり変化しないのではないかと思う。